社長ブログ

お経(佛教の経典)には何が書いてあるか?

2023.03.30

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お経(仏教の経典)には何が書いてあるか?

我々の日常の生活の中ではお経(経典・スートラ)はお葬式や仏事の時に詠むものと決めつけていますが、はたしてどうでしょうか?考えた事がありますか?殆どの方は知らないとお思います。

お経と言っても多くの日本の人々の知っているのは、般若心経くらいだけではないかと思います。しかしながら、実際にはお経は全部で8000巻くらいあり、般若心経はその内のだだの1巻の中のほんの一部分なのです。我々普通の日本人にとってお経は必要無いか?必要とは感じないと思っているだけです。お葬式と仏事は非日常だからです。但し、これは日本に特有の特徴です。外国特に仏教が国教の国では生活の一部が全て仏教なのです。スリランカやタイやカンボジアでは国の宗教が仏教なので大切な仏教を守り保護する為でもあり、仏教大臣がいますし、タイでは僧侶と普通の人とはおトイレが別になっています。ある種の差別かもしれませんが、高貴な方と普通の方と区別する為に、トイレは別にしています。つまり、日本のようにお葬式仏教ではありません。諸外国の佛教徒はお寺が観光地化している日本の寺院や佛教徒を見下しています。佛教寺院は本来、観光するものではないからです。信仰の場所であり、修養の場所だからです。日本の佛教徒もそれぞれの宗派ご開祖が新しく宗派を開いた時は今の様なお葬式佛教ではなかった様ですし、佛教の深い教えを請い広める内容のものであった様です。夫々の宗派ご開祖は後進にお釈迦の教えの粋を書き物で残されています、親鸞上人の教行信証のように、お釈迦様の教えに従い、その教えを間違いなく伝える内容の本を残されています。しかし、浄土真宗の僧侶でも読まない事と普通の方は当然読まない。これらの本の内容はお葬式での仕方など教えていません。

それから、仏教や仏法についてお話しする時に、ご開祖であるお釈迦が述べられた事のみが真実であり、勝手な個人的な見解や解釈は許されないのでそれらは全てお経に記載されていますので、その内容でしか、お話しできません。そして、重要な仏教を具体的にどうするか?の仏法の部分に関しては一定基準以上の規格を満たした方のみにしか、内容のお話ができません。僧侶と言え一定基準を満たしていない方は除外しなくてはならないと、硬くこれを守れと、戒律としてこれも経典に書かれていますので、あしからずご了承願います。〔佛教の蜜教と言われる部分がそれなのです。〕

(お釈迦様について)

先ずはお経の成り立ちから始めましょう。お釈迦様(本名はゴータマ・シッタルダ。北インドというより今のネパールに位置する所の、釈迦族(シャーカ族)の王子様でしたので、お釈迦様と言われています。)が仏教のご開祖です。前述の北インド・今のネパールの氏族の生まれで高い教育や各種の教養を身につけた高貴なお方ですが、文字の読み書きも勿論お出来になったようです。〔この点は三代宗教のご開祖であるキリストやマホメットとの大きな違いと言われています。〕28歳の時に、何の不自由もないお城の王子様の生活を捨てて、妻子もお城に残して、当時の自分の生活に何か足りないものを感じられて、佛教の真髄を求められてお城を出て行脚の旅に出られました。いろんな数々の苦行やヨガなどをはじめとして体を痛めつける多くの辛い修行も含めてされましたが、それまでもしても自分が求める悟りを開くまでに至らずの様でしたが、35才のある日、悟りを開かれる事となります。悟りを開かれるとは所謂、六道輪廻からの脱出に成功されます。(これを解脱という)。解脱したかどうかは証で証明できるので、その内容もお経に記載されています。(観無量寿経。)その事に感謝して、その後の約45年間は多くの方々に佛教の素晴らしさを布教の形で北インドを中心として行脚されます。

(お経の成り立ちについて)

お釈迦様が説法としてその時々の場所で述べられた内容は我々が読んでいるお経として残されています。お釈迦様はいろんな方々に説法としてお話はされましたが、御自身で書き物として残されていないので、お弟子で全行程を帯同したお弟子の方がお釈迦様没後に、「御佛の教えを一つの間違いも無く後世に伝えるべし」との確固たる志をもって、インド全土より五百人の遺弟(五百羅漢と言う)が馳せ参じた。インドの古代都市 王舎城郊外にいまものこる聖地「七葉窟」において佛教史上に名立たる第一回結集(仏典編纂会議)が行われた。お釈迦様はこんな事を言われたとの内容を書き記されたのが、お経です。2500年前の録音技術もない時代です。一人のお弟子で記憶力の良い方が暗記していた事を検証役のお弟子500人(五百羅漢という)が間違いないと判断したものだけが、お経(スートラ)として今日残されています。これはバーリ語やサンスクリット語で書かれました。

お弟子さんたちがお釈迦様没後、どうしてお経を作ったかですが、お釈迦様が亡くなられてから、お釈迦様の教えでない教義を伝えるグループが出現してきたので、その時にお釈迦様の教えを後世に正確に伝えようと考えたお弟子さんたちが、一同に集まりお経として纏め上げたと言われています。(これを第一回結集という。以後経典編纂会議である結集は現在まで6回開かれています。)

お経はインドの現地語のバーリ語やサンスクリット語で記述されたものを後に中国に伝える為に、インド人の僧侶や中国人僧侶何人かの高僧が中国語に翻訳して、持ち帰ったものが日本にも伝えられている。これが我々の読んでいる漢字で書かれたお経です。サンスクリット語やバーリ語で書かれている内容を漢字に翻訳して書かれたお経ですが、サンスクリット語やバーリ語と同じ内容は残されていまして、それは唱える文言、南無阿弥陀佛は同じです。サンスクリット語のナムアミタープの表音を真似てるのが南無阿弥陀仏です。

(仏教伝来の3ルートについて)

佛教は伝えられたルートが三通りありますが、其々解釈も少し異なりますが、これも可笑しな話です。元々は同じである筈だからです。

因みに、スリランカ、タイ、カンボジアに伝えられたのは南伝佛教(上座部佛教とも言う)。修行や戒律を重んじる。一日一食である。自力本願の考え方が強い。(修行をすれば悟りが開けるという考え方。)

又中国・韓国に伝えられ、日本にも伝えられた北伝佛教(大乗佛教とも言う)。とチベットとモンゴルに伝えられたチベット蜜教の三通りで伝えられています。北伝仏教とチベット密教は大乗仏教の範疇である。概ね、他力本願の考え方が主流。(修行では悟りは開けられないという考え方。自力本願と他力本願は別の機会に興味のある方にのみ話せる範囲でお話しできます。)

そのお経は全部で7000巻とも8000巻とも言われるものが残されています(お経全ての総称を一切経とか大蔵経という)。お葬式や仏事で読まれているのはほんの一部で(阿弥陀経など)、殆どは後世に残す教訓というものです。内容は百科辞典のようで大宇宙の事から我々の生活の一部の細かい事まで、何から何まで記述されています。現在の宇宙の成り立ち等の研究をされている学者や最先端の原子などの研究者も2500年前のお釈迦様の残された仏教経典の内容を見てその記載内容を見て、驚かれています。2500年前にそれくらい大宇宙の広大な深遠な知識や認識の持ち主であったようです。

前述しましたが、お釈迦様はお葬式と仏事をする為に佛教を広めたのではありません。これには明らかにノーと言えます。

例として、数字の単位の百千万億などは佛教由来のものです。言葉では十八番(おはこ)はこれも佛教からの由来の言葉です。本当に多いです。これら以外にも我々の生活で日頃使用している言葉で佛教由来の言葉は多いです。また、お経は後世の人々にお釈迦様が伝えたかった我々の人生そのものや、生活に必要な大切な事を伝える為に残されています。ただし、もっとも大切な部分はお経には書かれていません。書き残していません。これは非常に重要な内容なので、一定の規格を満たす、佛教を正確に伝承できるお弟子さんに口述のみで伝えられています。これは佛教ではなくて、教えを実現する為の方法を説いた、佛法と言われています。口述されて伝えられたので、佛法の口授心伝という。お釈迦様が開かれた佛教の約2500年の歴史の中で、非常に重要な事は資格ある僧侶に口述で伝えたと言われています。これを口述心伝という。佛教・佛法はそれくらい奥深いものと思っていただけると良いと思います。それら佛教・佛法の正確に伝承できる能力を持った僧侶の事を善智識と呼ぶ。

有名なところでは西遊記の中国の三蔵法師玄奘などが中国の国王の命令で、インドに行き、所謂天竺インド(ナーランダ僧院)で学んだ事をインドから中国に命をかけて佛教を伝えたと言われていますが、この時に佛教と佛法の両方を取得して伝えたと言われています。インドから砂漠も含む陸路をいろんな苦労を体感しながら、命をかけて、経典を中国に運んだと言われていますが、命をかけて運んだのが経典だけでは無かった。と言われれば理解できますでしょ。運んだのは経典である仏教とそれらを実現する方法としての仏法の両方を持ち帰ったと言うことです。こういう高僧を善智識という。三蔵法師玄奘も善智識であったと言われています。日本では聖徳太子は善智識と言われています。

お経は我々の生活の至る所に残されています。興味がありましたら、今までのご自身が考えておられる佛教の概念は捨てて、素になり何かお経を一冊読んでみれば良いと思います。興味が無い方はそれで良いと思います。元々菩提心の無い方に何も伝わらないので、興味の無い方には意味が無いので、お薦めはいたしません。冷たい表現ですが事実ですから、仕方がありません。諺で「馬の耳に念仏」というでしょ。無意味な喩えです。興味が無い方に良い為になるお話をしても意味が無い。響かない。それよりも知りたくなったら、どうすれば解るか示唆だけはさせて頂きます。その方が自分の身に成ると思います。